お客様が商品をその店で購入しようと決めている理由は、意外なほどあたりまえで単純なものだった。

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「はい、いらっしゃい」

のれんを左手であげながら、右手で引き戸を引き、30センチほど開いたドアと軒のあいだから顔をのぞかせると、カウンターの向う側にある厨房から大将の元気な掛け声がとんでくる。どんなに疲れていても、彼の声彼の顔を見ると、1日中クライアントに気を使いまくって疲弊しきった脳と体が、半分くらい持ち直してくる。僕のパワースポットだ。

大将と目線の交換をしたあと、僕はその目線を右のコーナーに移す。この居酒屋の最東端にあるお気に入りの場所だ。そこに座ると厨房から店全体を見わたせる。大将をはじめとした従業員と客とのやりとり、上司や会社の悪口をさかなに、ビールを何杯もおかわりする様子をさかなに僕もビールを飲む。
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右側には当然だが壁がある。そしてカウンターに備え付けの回転するタイプの椅子に座り反時計回りに180度体を回すとそこにはもうひとつの壁がある。その壁には僕がすきな漫画がところ狭しと並んである。ぼくが席をここに陣取るもうひとつの理由だ。人間ウオッチにあきたらぼくは反時計回りに回転する。

「河村さん、いらっしゃい、生でいい?」

こんなに親しみ深い笑顔をこの世の中ではたしてできる人がいるのだろうかというような笑顔で大将は厨房を横切り僕の前にたつ。おしぼりの袋を無造作に引きちぎり、おしぼりを右手で僕に差し出しながら、オーダーをとった。今まで飲んできたアルコール飲料の9割9分を占めるビール。おしぼりで左前腕を拭きながら、コクッとうなづいた

「はい、生いっちょう河村さんね」

と、大声で、アルバイトの大学生に向かってオーダーを叫ぶ。はい、生いっちょうね、とその大学生と厨房でトマトを切っている奥さんが復唱する。このやりとりが、狂気を帯びた声で、会社や上司の悪口をいう怨念と相まって、熱気はさらにあがり、活気に満ちあふれる。

さあ、くるぞ。

僕は、いよいよはじまる大将による最高のショーに備えて、椅子に深く腰をかける。

僕は、きっと、おそらく、いや、間違いなく、このショーのために、これを見るために毎日のようにこの居酒屋に通っている。さあ、今日はいったい何分間だろうか。僕は予想する。もう4年もこの店に通っている僕は、だいたいの時間を予測できる。今日の感じだと、おそらく僕に対するショーは1分。それ以上になることはないだろう。まあ、まちがいないだろうと、予測を終えたわたしは、あらためて席に深くかけなおした。

「今月、決算ですか?」

はじまった。

まず最初に驚かせるのは、彼の記憶力。自分自身がはなしたことも覚えていないことを彼は覚えている。9月は僕が勤める会社の決算。通常月より半端なく忙しいんだよねというのを、きっと僕はどこかの時点で言ってたのだろう。それを確実に覚えている。さすが大将と思いながら、わたしも脇役として、このショーに参加する。

「そうなんですよね〜、大変っす」

今日は9月26日。決算月の月末で、売り込みも佳境を迎え、僕も会社もものすごく忙しい。疲れきって何とか絞り出した声で答えた。脇役のセリフを聞いた主役の大将は、にこやかに微笑んでいる。そして次のセリフをはいた

「とりあえず、手羽先でいい?」

想像してなかった、セリフが飛んできた。驚いたわたしは、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をおそらくして、ニワトリの手羽先でいい?というオファーにたまらずうなづいた。

「はい、河村さんに手羽先ね〜」

と舞台裏に向かってはなち、大将は舞台袖に引っ込んだ。15秒。そのショーは、僕がこの居酒屋にきて最短のものだった。予想を45秒も下回る結果に、僕も常連と思ってたけどまだまだだなと、大将のすごさに脱帽しながら、回転椅子を左回りに180度回し、『風の大地』7巻に手を伸ばした。

いったいどういうことかと、なんの話かよくわからないと思っておられる読者に説明しよう。

ショーとは、この居酒屋の大将がもつホスピタリティー力のことだ。一流ホテルのおもてなし、銀座有閑マダムの接客術なんて一瞬で吹っ飛ぶほどの、接客というか、おもてなしというか、ホスピタリティーというのか、を彼は持っているのだ。

彼はお客さんとどれくらい話せばよいか完璧に把握している。彼のカンピューターは、製薬メーカー営業マン河村操との、本日の対話時間は15秒としたのだ。彼が、言葉も少なく、あまり客に関与しないということではない。多いときは、2時間の滞在で90分くらいはなす。

かなりプライベートな話までする。家族構成や、最近行ったゴルフのスコアーの話、どのタレントが好きとか、どうでもいい話をするのだ。

そう、彼は、今日のこの青年との会話は15秒だと、のれんをくぐった時の表情と、最初に交わした会話「そうなんですよね」で僕の状況を判断し、今日はあまりはなしたくないだろうと判断したのだ。

その日の僕は決算というのもあって、いつもより多くクライアントを回り、いつもより強引な商談をしまくった。相手に気をつかいながら、無理やり押し込むためにはなしまくった。相手に気も使ったのでヘトヘトに疲れていたのだ。もう、誰ともはなしたくないという思いで、店にはいった。

まあ、もう何年も通っているので、大将が僕と話をしないだろうなというのはわかっていた。だから短めの1分という予測をたてたのだが、思っている以上に短かった。もしかしたら、自分が思っている以上に疲れているのかも知れないと、大将のそれに、逆に教えられた。

僕は仕事がら色々な地方に行く。仕事が終わって居酒屋で一杯やるのが、なによりのストレス解消になる。行く先々によく居酒屋があるのだが、意外にも常連になることは少ない。ちょっと、顔が知られて、覚えられるようになると、僕は、店に行かなくなるってことが多い。

理由は、めんどくさいからだ。

前述のとおり、クライアントに気を使って10人も20人もに対して1日中はなしたあとは、もう誰とも話をしたくなくなる。そのときに、顔を知ってもらっている店に行くと、店主は、ひとりでいる俺に気を使って色々はなしかけてくれる。それは、とてもありがたいのだが、それが、そういう理由から、今日はもうほっといてとなる。根っからの営業マン体質がしみついた僕は、当然そこでも気を使ってはなすことになる。誰が悪いってことは当然ないのだが、必然、足が遠のいてしまう。それが、常連がすくない理由だ。

そういう意味において、僕がその居酒屋に毎日のように通っていた理由もおわかりだろう。大将は、一瞬で客がどうして欲しいかを判断する。僕は普通に足を踏み入れればいいだけだ。最高の状態を大将はつくってくれるのだ。

僕は結局この店に6年位通ったと思う。そこが与えてくれたおもてなし以上のものに、であうのはなかなかむずかしい。コラムでついつい、接客態度について愚痴ってしまうのは、脳裏に焼き付いているそこでのホスピタリティーがあるからだろう。もうしわけないなあと思わなくない。

結局僕はその店に6年間通った。理由は居心地がよかったからに他ならない。

お客様がその店を選ぶ理由は、実はそんなあたりまえで単純なところにあるのかもしれない。もちろん、居心地がわるい店にしようと思っている小売店はひとつとしてないだろう。そう考えると、どの店も、いかに居心地がいい店になるかに向いている。それなのに、なかなか、そういう店に出会えないのはなぜだろうか。

ひさしぶりに会いにいこうかなあ。その極意を聞くために。

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